
福岡県筑後地方はかねてよりイ草の生産が盛ん。
「イケヒコ・コーポレーション」はスーパーやホームセンターにイ草商品を供給する企業だ。
夏の商品中心の会社だったが、こたつやカーペットなどに力を入れいまや冬商品が夏物と肩を並べるまでになった。
さらにスーパー事業を拡大させるなど、新しい市場を拓いている。
朝7時。
イケヒコ・コーポレーションの朝は早い。
福岡県の南部、筑後地方の三猪郡(みずまぐん)大木町にある本社には、もうかなりの人数の社員が出勤してきて作業に取り組んでいる。
作業?
「返品作業」と呼ぶ仕事は、全国から返品されてきた商品の梱包を解いて点検する作業である。
なぜこの商品が返品されてきたのか、ただ伝票で管理するだけではなく、実際に担当者が目で確認してその原因を究明する。
傷があるからなのか、梱包の段ボールが壊れたのか、あるいは通販でクーリングオフによる返品の場合、お客さんは何が気に入らなかったのか。
こうした作業を関係者総出で毎朝始業前にやるという企業姿勢は、何より次のビジネスの成功を約束するはずだ。
イケヒコ・コーポレーションは1886年、池上彦太郎が始めた畳販売業に始まる。「畳表」「上敷き」「寝ござ」といった地元の農家がつくったものを仕入れて全国の問屋や畳屋に販売していた。
1963年に現在の会長である猪口芳範さんが20歳で社長に就任してから事業は一気に拡大した。
その理由は問屋業から製造業への転換だ。
猪口さんは当時新しく開発されたポリプロピレンに注目。
生活の洋風化が進む中で軽くて強度があるこの新素材を使ったカーペットを提案してヒットさせた。
イケヒコの売り上げを伸ばしたもう一つの理由は、全国スーパーチェーンとの取引の拡大だった。
高度成長期に最も売上を拡大した大手スーパーに対して、猪口さんは取扱いを求める売り込みに力をいれた。
せっかくよい商品を作ってもお客さんの目に触れる場所に商品がなければ売れるわけがない。
時代に合った販路を常に探すことが大切だ。
この考えは今も生きており、現在はホームセンター、そして通信販売でイケヒコの売り上げは伸びている。
ところでイ草の産地、筑後地方に生まれ育った猪口さんはイ草への思い入れが人一倍強い。
化学製品の特性を生かしつつもイ草と組み合わせられないかと、「イ草入りカーペット」を生産、さらには「イ草100パーセントカーペット」「イ草マット」「イ草草履」「イ草クッション」と、地元生産のイ草にこだわる姿勢を強めてきた。
だが80年代に入ると、農協は高値安定を考え農家にイ草の生産調整を指導するようになる。
国内のイ草のコストは上がり、イケヒコも対策を考えなければならなくなってきた。
猪口さんは中国での生産を考え始めた。
しかし、満足する品質のイ草に巡り合えず、日本国内から苗を持ちこんで、生産を委託する方法にたどりつく。
経営の中で生じる問題点に正面から向き合い、一つずつ解決してゆくのが「猪口流」だ。
例えば、季節による繁閑の差の問題もあった。
イ草商品はどうしても夏中心の販売となる。
なんとか冬場に稼ぐ商品作りを、というのがイケヒコの積年の課題だった。
そこでコタツやジュータン・クッション・寝具など冬物のファブリック商品群の拡充に努め、現在は夏と冬の売り上げ構成はほぼ同じになっている。
さらに、イケヒコはグループで食品スーパーの経営に乗り出した。
思いは地方の活性化、ちょっと不便な地方にお店をつくり人々が集い、対話の広場、情報の広場、地産地消。
結果、心温かい仲間達、健康、地方経済の活力に多少でもお役にたてたらとの思いから「アスタラビスタ」というスーパーチェーンの展開を1995年から始め、現在10店舗で売上規模は、本業のイケヒコを上回るまでになった。
つまり単純に考えれば、最初の夏のイ草だけの経営規模は、冬物を加えて2倍の現在110億円程度、さらにスーパーの売上げを加えてイケヒコ・コーポレーショングループとして220億程度と、ざっと4倍に拡大したことになる勘定だ。
中国産も増えてきたとはいえ地元の産物イ草を大切にし、地元の人々を雇用し、地元密着のスーパーも手掛ける。
イケヒコ・コーポレーションの経営を取材して、常に「地元」に視点があることを強く感じさせられた。