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西村晃の伝言板

2025-10-12

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こんな輸出もあるニッポン  ~築城の技術いまに~

「穴太衆」と書いて「あのうしゅう」と読む。

滋賀県の比叡山延暦寺の門前町である坂本には、かつて「穴太衆」と呼ばれる石工集団がいた。

穴太衆による石垣は、「石の声を聞け」という口伝に象徴されるように、加工しない自然石を巧みに組み合わせる「穴太衆積み」という技法で作られ、戦国時代には城造りにも用いられた。この地は今も美しい石垣の景観が残されている。



穴太衆の技術は、「野面積み(のづらづみ)」という自然石をほとんど加工せず、そのまま積む石積み技法。石の形、大きさ、重さがバラバラな中で、それぞれの石を見極めて配置する職人技が特徴だ。接着剤などを使わずに、排水性や石どうしの噛み合わせ、重さ・力の伝わり方などを考慮して積むため、地震や風雨に強く、何百年も持つ石垣が現存しているものが多い。



ここ坂本の地はかつて明智光秀が築城した坂本城があった。織田信長は比叡山を焼き討ちしたのち、延暦寺の監視と山麓一帯の支配を命じたのが明智光秀で、光秀は坂本城を築城した。坂本城は高層の大天主と小天主がそびえる豪壮な城で、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは「明智の築いた城は、豪壮華麗で信長の安土城に次ぐ城である」と語っている。坂本城は「本能寺の変」のあと10年で落城したが、この城の建設に光秀は「穴太衆」の石積み技術を採用している。



今も坂本にある粟田建設は穴太衆の技を受け継ぐ企業で、国内の著名建築はもちろんのことアメリカなど海外でも建築実績を積み重ねているほか、ワークショップなどを行ない公園や日本庭園で穴太衆積みを披露している。

人口減少もあり日本の建設業は国内需要は頭打ち傾向にある。そうした中で伝統的建築技法が海外で受け入れられれば、文化の輸出という意味でも大きな意味がある。